ガラスたちのおしゃべり : 株式会社十條 制作部/スタジオ グラシアムのスタッフブログ

2013年1月18日金曜日

無題

 自然の光の中で、無色透明のガラスは、周囲の景色を映し込んでいる。

その像は、ガラスの形と成型時の痕跡で屈折し、反射し、変形する。

その乱れは「揺らぎ」を生み、ガラスの表情をつくる。

それが自然の光の揺らぎと同調したとき、人の心を動かす。

光の動きは移りゆく時間の現れでもある。人の心も時の流れに揺らぎ、

ひとつの言葉では捉えられない。其れは音楽にも例えられる。

音楽は自然の流れに乗せて、人が作り出す音と音色だ。

音と音色が、聴く人の心の動きと同調したとき、心地よさや感動が生まれる。


僕は七〇年代の終わり頃、札幌のガラス工場でガラスを学んだ。

そこでは、当時でも殆どが、機械生産やプラスチック製に変わっていた。

実用ガラス(容器ビン等)が、職人の手によって、吹きガラスで作られていた。

そのガラスには工業製品に無い美しさが有った。それはデザインの美しさというより、

自然の美しさに近く、波や風、人の息遣い、山並みや木々の姿にも見られる

リズムと揺らめきをもっていた。機械の幾何的な繰り返しではなく、

又、でたらめな乱れとも違う心地よさがあった。

その美しさは、頭で考えたデザインでなく、直接、身体の流れにしたがって

ガラスを吹くことで生まれる。そのことを、工場で単純なかたちを

繰り返し作り続けるという、一見、機械のような仕事のなかで知った。

つまり正確に動く機械に成ろうとすることで、自分の中にある自然に気がついたことになる。

人は物を作るとき、その素材に触れ、素材の感触に触れながら手を加えて行く。

そのやりとりのなかで、素材の性質を自分の中に取り込んでゆく。

自然の素材を使うとき、人は自分の内にある自然を自覚する。

その自分の内にある自然とは、

人が人となる遥か以前、海に浮かぶ生物だった頃に、

遺伝子に刷り込まれた波や潮の満ち干きのリズム。

人が生まれてから目にし、肌に感じてきた、光や風のもつ「揺らぎ」

それらが人の内に刻み込んだものだ。その内なる自然、

つまり、人の心が持つ揺らぎと自然の持つ揺らぎが共鳴したときに、心地よさが生まれる。

それが自然の素材に触れたときの感覚だ。

しかし、ガラスを溶かす高温の坩堝の中は、人が生きる自然界ではなく、

敢えて言えば、重力や熱エネルギーの法則だけが働いている世界だ。

人が坩堝から巻き取溶けた状態のガラスには、

自然界のリズムや揺らぎは刻み込まれていない。

つまり、素材としてのガラスは自然素材ではない。

そこに自然を持ち込むのは吹く人だ。作りたいのは自然と同質のガラス。

無色で透明のなかに、自然の光と色を感じたい。

      ・・・・・・・ 荒川尚也(展覧会案内状より)

 本物の工芸家から発せらた、作ることの本質に迫る言葉にどうしようもなく

感動を覚えることがある。それは、ほかの誰の、ほかのどんな言葉とも

置き換えることができないものだと思う。


   年末より年が明けてからも仕事がけっこう忙しく、せわし無い日々を

   送っていますが、民芸関係の本でこの文章が眼にとまり読みましたら

   少し心に余裕が出た気がしました。少々長くてすいません。

   ・・・・・ ドレパリー













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